2013年1月アーカイブ

1994年、読亮テレビ放送、113分
監督/相米慎
脚本/田中陽造
撮影/篠田昇
音楽/セルジオ‐アサド
出演/三國連太郎、淡島千景、戸田菜穂、坂田直樹、王泰貴、牧野圭思

老人は次第に子供に帰ると言われる。
だとすると子供が大人になつていくどこかの時点で、子供と大人は交叉することになる。
下降と上昇という言葉遣いは不適切かもしれないが、交叉し関係が逆転するが、同じレベルで交わる瞬間に、ある種の連帯が生じると言つてよいのではないか。
あるい同じ位置に立つ者同士の対等の人間関係の成立とも言えよう。
その時に、旧い世代から新しい世代へ「文化の伝達・継承」とでも呼ぶことがなされるのだろう。
それを個々に把握せずにトータルに
抽象的にとらえれば歴史の綿々とした継続性が約束されることになる。
この映画は、神戸に住む三人の小学六年生が一人幕らしの老人公(三國)と知り合い、
仲良しになりながら上記の伝達・継承がなされていく。しかし中心となるのは「死」の問題である。
はじめの動機は、老人の死ぬのを見たいし確かめたいという子供子供した興味であったが、
老人の庭の草刈りをし、障子の張り替えを教えてもらいつつ手伝いをし、屋根にペンキを塗り、
大掃除をいっしょにする人間関係が成立していく。いつしか三人にとって老人は「おじいちゃん」としての存在になつていた。
身寄りのないと人でありたが、三人の問いかけに、かって妻がいたが戦争でフィリピンに従軍して以来、
復員してからも妻の生存確認をしないままになっているとの答えが返ってくる。どうして妻を捜さなかったかの問いに、戦場で身重の民間女性を殺してしまい罪の意識から家族を持ってはいけないと判断し、一人だけで生涯
を送る決意をしたからだと答える。三人は、「おじいちゃんの奥さんを捜そう」と考え、老人ホームで奥さん(淡島)を探し出す。
だが二人が再会する前に「おじいちゃん」は死ぬ。
はじめは薄っぺらい死への興味だけであったが、現実の死を見て、三人の子供はその厳粛さに泣くのだった。

老人の遺体が焼かれる直前、ホームからかけつけた老妻が、老人の遺体を見て、「おかえりなさい」と手を合わせる。いま「おじいちゃん」は、やっと戦争から妻の元に帰還してきたのである。
子供が「死」をぼんやり意識するのは何歳くらいなのか。「死ぬのが怖い」と怯えて震え泣き、親にも恐怖を言うことができずにもんもんと眠れぬ夜を送るのはいくつくらいであろう。この映画では興味と詮索好きから、
現実の老人の死を見届けることで成長していく子供達をみつめるが、同時に戦争と戦争責任の問題を、
子供達に継承させるという意図も持っている。それは自然の摂理としての死と、戦争という人為による不条理な
死とを若い世代に区別して知らしめるという映画の作り手たちの真摯な祈りといつてもよかろう。
監督の相米慎二は五三歳で没したが、『セーラー服と機関銃』『魚影の群れ』『あ、春』などの秀作を発表し、
児童文学でも他に『お引越し』がある。カメラの長まわしによる徹底して人間を凝視する映画技法は、
独特の味をもつことで定評があったか、この映画でも極端になるこは排しつつ、撮影技法の特徴も目立つものにな
っている。厳粛な「死」に関連するラストいくつかのシーンには涙が流れるのを止めることができない。

シニアのための映画案内
老いてこそわかる映画がある 吉村英夫 著(大月書店) より

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